板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日 - 1961年(昭和36年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に農業・板花茂一郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。
1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進。1927年(昭和2年)12月、陸大教官となり、第3師団参謀仰付を経て、1930年(昭和5年)8月、輜重兵中佐に進級。1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍参謀仰付となり、参謀本部員、欧州出張、陸軍自動車学校教官を経て関東軍自動車隊長に就任し、1935年(昭和10年)3月、輜重兵大佐に昇進。
1936年(昭和11年)8月、輜重兵監部員に転じ、第1軍兵站参謀長、同軍参謀を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し下志津飛行学校付となる。1938年(昭和13年)11月、熊谷陸軍飛行学校幹事に就任し、第7飛行団長を経て明野陸軍飛行学校長となり、1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)11月、新設の第6飛行師団長として出征。ラバウルに赴任し東部ニューギニア方面での航空戦を指揮。1944年(昭和19年)4月、陸軍航空本部付に転じ、陸軍航空通信学校長を経て、1944年8月、第2航空軍司令官に発令され満州に赴任。1945年(昭和20年)6月、予備役編入となった。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
その後は横浜市で余生を送った。
栄典
- 1941年(昭和16年)9月15日 - 従四位
- 1943年(昭和18年)10月1日 - 正四位
脚注
注釈
出典
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263。




